<   2012年 10月 ( 7 )   > この月の画像一覧

未来の学校 沖縄編

・・・すご~くながいテキストを書いたら、最後の最後にボタンを押し間違え、消えました・・・

ありえない・・・(涙、涙、涙。。。)

久しぶりに、写真も使って、まともな(?)内容だったのに~。(それがいけなかったの?)


えっと・・・

とりあえず、写真だけ再度アップします。
再びテキスト書く気力が・・・はぁ~~~。



沖縄北部、やんばるの自然の中で5月からスタートした、フリースクール「森のこども園」。

自然の「気」が溢れた、オーシッタイをベースに活動してます。

f0204458_22324495.jpg


見渡す限り広がる、やんばるの原生林。

f0204458_22333528.jpg




この間は、パン作りに挑戦!

f0204458_22364450.jpg


こねこねは、子どもたち大得意。

f0204458_22385294.jpg


ふくらんだ~。

f0204458_224141.jpg


薪を集め、火をおこし、炭火で焼きます。

f0204458_22423870.jpg


出来立てあつあつのパン!おいしかった~。

f0204458_22443229.jpg




詳しいご紹介は、この衝撃から立ち直ったら。。。
[PR]
by kamakuraecolife | 2012-10-31 22:50 | こどもの教育のこと

秋には音楽を。

秋は音楽が似合う季節。


このあいだから、フィッシュマンズにはまってしまい、ついにはDVDまで!購入してしまった私・・・

このところCDはおろか、DVDなんて・・・実は買ったのは初めて!という私、そのはまりっぷりは半端じゃない。

だけど、youtubeでライブ映像をみて、なんだかこう、もっと彼らの音楽を生演奏の感覚で聴きたい~!という欲求が抑えられず。
ボーカル佐藤くんの歌は、もうライブじゃ聴けないしね。。。

しかし・・・DVDをパソコンで再生してると、ちょこちょこ音が途切れる。。。
これはいただけない!だったらyoutubeで見てた方がよかったじゃん・・・って、ちょっとがっかり(涙)
パソコンの容量のせい?
原因はわからず。

・・・いつかDVDプレーヤー買って、きっちり再生してもらおう。


だけど、やっぱり歌っている佐藤くんはいいね!
あのタコみたいな動き、最高。
あの、放心したような、集中しているような、彼の独特のたたずまいはなんだか、人事とは思えない親近感を感じてしまう。

そして前から薄々気付いていたんだけれど、
誰かに似ている、この風貌。

そうだ・・・

私が中学高校と片思いしていたIくん・・・

見ればみるほど、共通点が。

あ~、なんだか益々切なくなってきた。。。おっと、これは感情移入しすぎだ。


ある意味、あの時期に彼らにどっぷりはまっていなかったことは、精神衛生上はよかったのかも。なんて・・・

まさに、同じ時期に下北沢に住んでた私、ひょっとしたらすれ違ったこともあったかもなぁ・・・

とか、下手に親近感持ちすぎてたら、佐藤くんの死を受け止めるのは本当にしんどいことになっただろう。

しかし、彼らの音楽は、あの下北時代と色々シンクロしていて、懐かしさひとしお。

90年代、下北、私の青春第2幕(笑)



というところでふと思い出したもう一人の音楽家。下北在住の。

クラシックのピアニスト、フジコ・へミング。


そうそう、多分、この人こそまさに、すれ違った事があるはず。

あの、NHKの特集で有名になる前、下北の駅の脇の歩道ですれちがったあの女性・・・

下北には独特な風貌の老若男女がうようよしていたから、ちょっと変わってる、くらいだとそんなに印象に残らないんだけれど、

テレビでフジコさんのいでたちを見たとき、「あ!あの時の!」って、思い出した。

独特の衣装(というか、普段着なんだと思うけど。)と、ちょっと得体の知れないオーラを発するあの風貌。

それにしてもあの番組、詩的でよかったなぁ。

その後すぐ、というか多分あの番組と前後して、彼女は一躍有名人に。


私も、数年前にコンサート、言ってきました。

あ、フィッシュマンズ~とか言ってますけど、実のところ私の音楽の趣味はホンと節操なし。

クラシックも大好き~。

昔は・・・ピアノ習っていたりして・・・挫折したクチですが。


あれは確か11月とか12月とか、秋の夜の演奏会だったかな。

コンサートホールに急ぐあの、秋の夜の東京の風景が、なんだかとても鮮明に記憶に残っている。


そして、フジコさんの演奏、すばらしかったです。

クラシックのコンサートは始めてじゃなかったけれど、彼女の人となりがあらわれた、独特の雰囲気のコンサートは、とても特別な感じがして、感動もひとしお。

ピアノの音が、ひとつひとつ真珠のような玉になって、会場中に飛びちっていくのが見えました。

音のシャワーとでも言うような、キラキラとした光が、本当に見えた(気がした)。。。

なんだか、心の芯に届く音。

そして、記憶の中にある、感情のひとつひとつがその音に反応して、共鳴をはじめて・・・

理由はなく、ただ涙が流れてしまう。

「心が洗われる」というのは、こういう事なのかな。。。



その1,2年後、別のコンサートホールで再び彼女の演奏を聴きました。

その時、みんなの注目の的になっていた一人の男性が。


開演前にホールの外で、まるでオペラ歌手のような大声を張り上げ、近くにいる人に絡んでは、ひっくりかえったりしている酔っ払いのような男性・・・

その男性は、「フジコはおれの姉だ」と。

周りの人は絡まれないように、なるべく彼に近づかないように、ちょっと遠巻きに見ていましたが、結局、ひっくり返って起き上がれなくなり、開演直前に付き人のような人に車椅子に乗せられ、退席。

みんな、心の中で、「ホントに弟!?」とか、「あの状態でコンサートホールに入って大丈夫なのかなぁ・・・」と、思っている雰囲気がありありと。


そして、演奏。

フジコさんのピアノは、前回よりも大きな会場だったからか、もっと、力強く感じられました。

どちらかといえば、前のときのちょっぴり「プライベート」っぽい、リラックスした雰囲気のほうが私には感情移入しやすかった気もするけれど。

それと今回は、演奏中、心の片隅で、あの、彼の、「おなかの底から発せられた野太い声」が、どこからか聞こえてくるんじゃないかと、内心ヒヤヒヤしてたのもあり、ちょぴり集中できなかったというのも事実・・・


しかし演奏は滞りなく終了。
彼はホールにいなかったのかな?と思ったその瞬間、

「ブラボー」

と、フロント席からあの怒声のような声が。


いたんだ・・・


でも、演奏中は、静かにしてたんだ・・・



結局、彼の素性はそのときは判らずじまいでしたが、後でなにかの情報をネットだかで目にして、どうも彼は本当の弟さんらしいと・・・

昔、声楽をやっていた弟がいる、という事が書かれていて、そうだ、あの野太い声は、声楽でもやっていないと出せない声だと。

がっしりとした体格と、どこか日本人離れした顔立ち、血のつながった弟さんだったのかな。


それにしても、彼女の寛大さというか・・・

有名になって、もしもあんな風に公衆の面前で暴れだすような身内がいたとしたら、普通出入り禁止とかにしちゃってもおかしくないんじゃないかな、と思うのだけど、

そこを彼女はありのままに、ただ普通のことのように受け入れていられる人なのかな、と、その人柄に、人間的な懐の広さを見せられた気がしました。

多分、彼女はそういう人なんだろうなと。

インタビュー記事なんかを読んでも、彼女がどんなに有名になろうと、変わらない、人として全うな感覚をもち続けていることに感動させられます。

あるインタビューで語っていた言葉、

「今は困っている人が本当に世界中にたくさんいる。
自分が1万円もっていたら、そのうちせめて千円でも、その人たちのために役立てなくては。」

有名になる前は、本当にお金がなくて大変だった、とも言っていた彼女。

これは彼女の本質なのでしょう。

人間って、いいな、と思います。


そして、音楽って、やっぱりいいな。

人の心をふるわせる、「音」の不思議。

記憶の中に、細胞の中に、その「音」が触れた瞬間に生まれる「感情」。

この「音」を紡ぎ、「音」を奏でることのできる才能を持った人たちを、心から尊敬します。



もし今度生まれ変わったら、音楽にかかわりたいなぁ~。音楽の才能が欲しい~。聴くだけじゃなくって・・・
(あれ、ピアノ自分から止めたんだった、私。)



引越しの片付けの側、しばらく音楽を楽しもう。

側・・・になっていない現状だけど。。。(やばい・・・)
[PR]
by kamakuraecolife | 2012-10-31 01:11 | 日々・・・

放浪のとき

沖縄に秋風がふいています。

秋風は、旅心をくすぐります。


学生時代は夏休みが長くて、8月と9月がまるまるふた月お休みだった頃から、旅行にいくなら旅行シーズンが終わった9月。

社会人になってからは、海外旅行のチケットが安くなる10月中旬以降が私にとっての旅シーズン。

だから、この秋風は、たまらなく旅心をかきたてるのです。。。



これまでいろんな場所を一人で歩いてきたけれど、誰も知らない、誰とも会話をわかちあうことのない、孤独な一人旅はなぜか美しい思い出で溢れている。

あれはいったい何なのだろう?

寂しさでもなく、人恋しさでもなく、なのに何を求めて歩いていたのだろう?
あってないような目的地を目指し、ただ、歩き、移動を続ける日々。

しらない街の、夕暮れのバスに乗り、家路に急ぐ人たちに混じって、いったい自分はどこに向かっていたんだろう。


人気のないシエスタの時間、あわいパステルカラーのペンキがほとんど剥げ落ちてしまった、白い壁の家々が並ぶスペインの田舎町の路地。

風は冷たいのに、日差しはジリジリと焼けつく、季節はずれの閑散としたスペインのリゾートビーチで、何の予定もなくひとり寝転がってうたたねしながら聞いた風の音。

めまぐるしく風景が移り変わり、息を呑むような色の変化の美しさにみとれて、時間を忘れてしまったコスタ・デル・ソルの車窓からの景色。

深夜の真っ暗な道路を失踪する、バスの窓から見上げた異国の星空。

帰り道がわからなくなって、迷路のような路地を泣きながらさまよったモロッコの海岸の街。

何度も同じ道を、毎年のように歩いているのに、何故か目的の場所にたどり着けない石畳のパリの街。

顔が隠れてしまうほど大きな木の葉が舞い落ちる、冬支度を始めたオランダの町外れの公園。


いろんな国の、いろんな風景が、秋の風の気配とともに、よみがえってきます。


旅をする理由、それを聞かれても、よくわからない。
だけど、あの時の自分は、旅をせずにはいられなかった。

怖いこととか、面倒なことだって色々起こって大変だったりもしたのだけれど、
なんだろう、日常で起こらない出来事があることが、その瞬間に「生きている」、生々しい感情を体験できたからなのかもしれない。

そして、何より、「見たい」「感じたい」という欲求が、自分を先に先に進ませていたのかもしれない。

まだ見たことのない、美しい風景を。

まだ体験したことのない、自分の中にある感情を。。。



30代になったばかりのころ、知り合いの写真家が作品にするため、友人たちの写真と、小さなインタビューを集めていた。

私もそこに参加したのだけれど、その時の質問に

「10年後の自分はどうしてると思う?」というものがあって、余り考えもせず、

「世界中を旅してるとか・・・どこか違う場所にいる」みたいな事を答えた。



その1年後、仕事を辞め、今の旦那さんと再び、世界中のいろんな場所を旅していた。

そして今、何故か思いもよらず沖縄に住むことになり、

そして2ヵ月後には、今度は国境をまたいで生活の場を変えることになった。



人はだいたい、無意識の中で自分の未来をある程度はわかっているんだと思う。



もっと記憶を遡っていくと、学生時代につけていた日記帳に「未来の夢」みたいなものを書いていて、その当時、卒業後にやってみたいことを、とりとめもなく箇条書きにしたページを10年後に見つけた。


自分でも驚いたのだけれど、ほぼ、やりたいこと、それに限りなく近いことをすでにやっていた。
ひとつ全然叶っていないものがあったけれど、それは
「お花屋さん」(笑)


「夢」は見るためにあるのではなく、実現させるためにある、なんて言う言葉を若い頃よく聞かされていて、「そうは言ってもね~」なんて思っていたけれど、これは本当の事だったんだなぁと、その時しみじみ感じたことを覚えている。



そして先日、父が電話口で言った言葉に、ここにもまた一つの答えが。

父は私の海外引越しを冗談交じりに皮肉り、

「そんな、放浪者みたいな生活をして。お父さんが言ったとおりの人生になってしまったじゃないか。」

と。


それを聞いて、そうだよ、お父さんが「言ったとおり」になってしまったんだよ、と、私は心の中で繰り返した。

お父さん、それはもしかしたら「言霊」だよ、とうっかり言いかけて、父の気持ちを逆撫でするかと思い、やめた。


思いは実現するし、言葉も真実になる。

父は、私の風来坊的な素質を親目線でみて、心配してそう言っていたんだろう。

だけど、それを繰り返し耳にしていた私も、その言葉を体現する「刷り込み」をされていたのかもよ、お父さん。

相乗効果抜群。(笑)


子どもに言葉をかけるときは、本当に気をつけないといけません。
その一言が、子どもの人生を左右することになるかもしれないから(笑)

自分の子どもにはせめて、「やりたいと思ったことは、何でも実現できるから。それは真実だから。」と伝えてあげたい。

いっぱい夢をみてごらん、と。

そして、できるだけ親の先入観と価値観を押し付けないように・・・(難しいけど。)



自分に関することは、薄々、自分でもわかっている。

自分が、ひとつの場所にいられない性分(運命?)だってことは、ずいぶん昔から。

女の子の「仲良しグループ」にもなじめなくて、いつもクラスでどこにも所属できずにいた事、

自分で決めたわけじゃないけれど、転勤や引越しで同じ場所に5年以上腰を落ち着けたことがなかった子ども時代。

それに、単純に、一人でいるのが好きだった。

友達といるのも好きだったし、接客業はある意味、自分の天職だと思えるくらい、人と接することが大好きだったけれど、一人でいる時間は、自分にとってなんと言うか、特別な時間だったから。

旅に出ると、本当に、芯から「一人」を体感できる。

一瞬一瞬がただ一人の「素」の自分だけ。

それは孤独じゃなくて、。。。



そして、先日、5年ぶりくらいにネットのサイトだけれど、「オーラソーマ」の診断をやってみたら、最初に出てきたカードが、これ。


「ワンダラー・放浪者」


ダメだしですね。109分の一の確立で、このカード。


自分の魂のキャラクターは、どこで決まったのかは判らないけれど、どうにもこうにも変えられないもののようです。



そういうわけで、多分、来月には、沖縄を離れます。

この夢のような時間を与えてくれた人たち、そしてこの美しい土地に、心から感謝しています。


今自分は、「地球が自分の家」だと思っているから、どこに住んでも多分、何かが大きく変わることはないでしょう。

数ヵ月後、数年後、何の予定もないけれど、ずっと心のなかにある「ビジョン」と、「感覚」が、どこかあるべき場所に自分を導いてくれるのだということを、知っているから。


さて、荷物の整理を急がなくては。


まだ見たことのない、美しい風景を求めて、心の体験を求めて。

まだまだ人生の旅は続くようです。
[PR]
by kamakuraecolife | 2012-10-23 13:33 | 日々・・・

フィッシュマンズ。

この二日間ほど、ずっとフィッシュマンズを聞いている。

なぜだか突然、フィッシュマンズが聞きたくなって、you tube で検索したら、出るわ出るわ。

余りyou tubeを日常生活に活用してるほうではなかったけれど、動画がこんなに見れるとは。知らなかった。
便利だなぁ~・・・と、今更ながら。


フィッシュマンズの音楽との出会いは、私が長崎で学生生活をしてた頃。

友達がFMでDJをやっていて、その友人のセレクトした曲がラジオから流れたとき、初めて聞いたんだったかな・・・

なんというか、あの、独特の脱力感と、でもなぜかしっかりと心に刻み付けられるリズムのギャップが印象的というか、心の中に余韻が残る、心地いい音だな~と。

当時からテレビは見なかったし、音楽はいつもラジオで聞いていたので、私にとっては時折ラジオから流れるフィッシュマンズの曲が、日々の生活のバックミュージックとして溶け込んでいた。
多分、あの頃長崎のFMでは、結構頻繁に流されていたんじゃないかな、という気がするんだけど。。。

ものすごく熱心に聞いていたわけじゃないけど、いつでも身近にそこにある、気持ちのいい音。

それが、私にとってのフィッシュマンズの音楽だった。



そして、ある夏の終わりの海岸にて・・・

そのフィッシュマンズのライブが、長崎で行われた。

調べていたら出てきたんだけれど、1993年、8月29日、長崎の田子の浦海岸での、フィッシュマンズにとっては九州初のライブだったと。

これが、私にとっての最初で最後のフィッシュマンズのライブ。

そして、数少ないライブ体験の中ではあるけれど、これは私にとっては最高のライブだった。

今でもずっと、あの海辺のステージと、周りの空気に溶け込んで流れていく、フィッシュマンズの演奏が、こころの片隅にしっかりと刻まれていて、思い出せばいつでもリアルにそのライブの情景が再現される。

それはそれは、本当に素敵なライブだった。


8月最後の週末だったかな。

ちょっぴり、夏の終わりの空気の漂う海岸で、砂浜の上にやぐらのように組まれた小さなステージで、彼らは演奏していた。

観客は、砂浜に座ったり、ねそべったり、好き勝手な場所で自由に、彼らの音楽と波の音を楽しんでいた。

私も、友達が仕事をしていた、ステージからは少し離れたFM局のブースの近くで、のんびりと演奏を聴いていた。

仲良しの友人と、彼女の付き合い始めたばかりのDJの彼と(笑)、FMにいる友達と、音楽関係者の飲み友達と・・・
青春の一コマ(笑)。幸せで、楽しくて、時間も今よりずっとゆったり、豊富にあった時代。

ほんとに、フィッシュマンズの音楽が、いろんな意味でこのシチュエーションにぴったりだったんだ。。。


彼らがどの曲目を演奏したとかは、全部をはっきり覚えていないんだけど・・・

「Future」と「頼りない天使」は、すごいいい演奏ができたと、ベースの譲さんのコメントが残ってあった。


演奏が始まったのは午後3時か4時頃。

ちょうど、日差しが夕方に向かって、やわらかく変わっていく時間帯。

波の音と、海風と、潮の匂いと、音楽。

そのうちだんだんと、日が暮れて、潮が満ちてきて、ステージの下まで波が寄せてきた。

最高の舞台装置。

波のゆらめきにも似た、佐藤くんの声が、ステージ以外になにもない、町外れの静かな海岸に漂う。

完璧だった。

本当に、ただただ、最高に気持ちがよかった。



波がステージのバックの夕焼け色を反射し始めたころ、ライブは終わった。

空になったステージは、海の中に残され、ライブの余韻と、夏の終わりのちょっぴり切ない夕暮れ時の雰囲気が、一枚の写真のように、パーフェクトに心の記憶に刻まれた。

だから私にとってのフィッシュマンズは、どうしてもあの海の風景とセットになってしまう。

大好きな長崎の海と、短い学生時代の中の、のんびりとした、そしてほんのり甘い青春の思い出とともに(笑)


それから数年後、東京に上京してからも、彼らの音楽は自分の生活のなかでいつも自然に存在していた。

よく、フィッシュマンズの音楽は当時の世田谷、渋谷の空気だと表現されるのを聞いたりするけれど、あの頃の東京の空気は、まさにそんな感じだったなぁ。

しかも、自分は世田谷、下北沢とその界隈に住んでいたし、まさに渋谷で夜な夜なナイトクルージング・・・(笑)

だけど、それでもそんな彼らの「都会」のイメージよりも、自分にとってはやっぱり、あの「海岸」のフィッシュマンズの印象が鮮明で、それが変わることはなかった。・・・多分かなり偏ってるけど・・・


そして、あの日。


友達が、「フィッシュマンズのボーカル、死んだんだよ。」と告げた。

あの時から、私の中でのフィッシュマンズの記憶が止まっていた。

それはとっても現実味のない話で、わたしにとってはいつもあの波の上のステージで演奏する彼らの姿が、いつもリアルに存在していたから、佐藤くんがいなくなった、という現実の話はその瞬間に、遠くの、ぼんやりとした記憶の中にしまい込まれてしまったかのように、ある意味消えてしまった。
だから、佐藤くんが亡くなった事を、ずいぶん長いこと忘れていたのだ。
ただ、その友人の声だけは、ずっと、頭の片隅でエコーを続けたまま。。。



そして今、初めてフィッシュマンズの「他の」ライブ映像を目にして、突然、そうか、今のこの瞬間に、彼はいなくなったんだ、ということが、現実の事なんだと理解できた。できてしまった。。。

ボーカル佐藤くんの最後のライブ映像とは知らずに観た、

「Fishmans フィッシュマンズ / 男達の別れ: 98.12.28 @赤坂blitz 」、

これは・・・

切なすぎる。

それを知らずに観ていても、なんというか、もう、この世のものとは思えない彼の存在感、一瞬一瞬を刻むような心の動きが、なんだか手に取るように感じられて、ただただ美しくて、苦しくて、切なくて、見とれてしまう。

ステージのセットもまるで、ちがう次元の世界に引き込まれるような・・・

やばいよ・・・

「頼りない天使」を歌う佐藤くんは、だれかがコメントしていたように、本当に「頼りない天使」そのものだ。

語るように、祈るように、手を顔の前に握りしめて。
そして歌い終わった彼が、うなずくように、かすかに「よし・・・」というような口元の動きをするんだけど、まさに、何かをひとつひとつやり終えたと確認するような、あの表情が。


これが最後のライブ映像だと後で知った時、泣きたくなってしまった。

そうか、そうだったんだ。だからなのか。



彼の歌う姿をみていると、なんだかわからないけれど、「大丈夫だよ~!」っと、抱きしめたくなるような、小さな子どもをみているような錯覚がした。

それは、私が見ていた、海岸の佐藤くんとは別の、というか、私が知らなかった彼の魂の別の一面、もしかしたら、とても彼の本質に近い姿を、初めて見たからなのかもしれない。

あの頃の、無邪気な子どもの雰囲気とは違う、どちらかというと、さらけ出して、無防備な子どもの危うさのような・・・

どこか、ぎりぎりの場所に立って、なんとかして現実の意識を保っているような、きわどさすら感じてしまう。

別人みたいだ。
もしかしたら本当に、別の世界にいる人を見ているのかもしれない。


ファンというほどの立ち位置ではないし、それほど、というよりは、他のライブをみたこともなかったし、楽曲以外、具体的にはほとんど彼らのことを知らなかった一リスナーにすぎない私だから、余計にそんな印象を持ってしまったのかもしれないけれど・・・

このライブの、「LONG SEASON」も、これ一つがまさにフィルム、一つの物語。
半端な気分では見れない、聴けないような映像。

美しいけれど、どこか、ああ、これはまだ知ってはいけない、というような、立ち入ってはいけない世界の一部分を見ているような・・・

みちゃってたんだろうなぁ。きっと、彼は。

「僕ら はんぶん 夢の中・・・」


あぁ、なんて事だ。

夢から覚まされてしまったような、夢の世界へ連れ戻されてしまったような、フィッシュマンズの世界に、しばらくは浸ってしまいそう・・・

記憶の中で波の向こう側にいた佐藤くんは今、彼岸・・・岸の向こう側から、悟りの世界から、この煩悩の世界をゆらゆらと眺めているのかな。。。



彼の作った音楽は永遠になくならない。
メンバーと奏でた音楽は、今この瞬間にも耳に響いてくる。
だからある意味、彼がいない、という事実は、現実ではないと言えるのかもしれない。


人はこの世から消えても、無くならない。

別の世界の扉を開いて、そちら側から、今度はこちらの世界を覗いてみているんだ。

すべてはつながっているし、魂は消えないし、そして、目に見える世界だけが現実ではない。

そんな次元の架け橋みたいなところを、きっと彼は浮遊しながら行き来して、私たちに見せてくれていたんだろう。

すばらしい体験をありがとう!

そして、これからも、現実の中の夢と、夢の中の現実を自在に飛び回る、その音楽と、歌声を、聞かせてください。


「頼りない天使」

http://www.youtube.com/watch?v=YZ_aPr-6KAs&NR=1&feature=endscreen



「いかれたBaby」

http://www.youtube.com/watch?v=BCOP3TEk0dY&feature=related
[PR]
by kamakuraecolife | 2012-10-19 00:22 | 日々・・・

愛って?

何かの本に書いてあった言葉。

「あなたがもし、何かが足りないと感じているとしたら、その原因はただ一つ、あなたがそれを人に与えていないということです。」

これは、「愛」というものに対しても、あてはまる名言だと思ったのですが。。。




むかしから、恋愛ネタとかにあんまり興味がなく、親しい友達からもずっと後になってから、「マミコの前ではなんとなく恋愛話はタブーな雰囲気だった。」と言われたりしてびっくりしたことがあった。

そしてなぜか、失礼なことに、私が「一生結婚しない」と思っていた友達が沢山いた。。。


確かに、20代の浮かれがちな年頃の時でも、どうしてみんな恋愛の話ばっかりするんだろ、他に話すことないのかな、なんて不思議に思っていたりもしたし、学生時代なんて片思いまっしぐら・・・というか、現実的な恋愛が出来ずに、ず~っと、飽きもせず、遠くに引っ越しちゃった同じ男の子のこと、ぼんやり片思いしてた不毛の青春(笑)

そこを通り過ぎたら、今度は「なんで男っていうのは、”男女の友情なんてありえない”なんて言うんだ!」「ゼロか100か、人間関係ってそんなもん?」と憤慨し、正直、げんなりしていたというか、男子に失望した長い冬の時代。

そうだ、恋愛というのは私の得意分野じゃない。

片思いといったって、頑張って振り向いてもらう!みたいなけなげな乙女心ではなく、「自分が好きだったらそれでいい」という、完全な自己完結型だったし・・・
ある意味、ストーカー的な?・・・(怖・・・)

こんなこともあった。ずっと片思いしてた先輩に、バレンタインデーにチョコを渡したとき、
「俺、今彼女おらんけん。」(九州弁)と言われて、
「そうなんですか~、もったいないですね。」とあっさり返答し、会話終了・・・

ずっと後になって、「先輩、何で私にあんなこと言ったんだろう?」と思い出し、友達に尋ねたら、「アホか。」と言われた。


その後も、何年も片思いしてた男の子が、「今、彼女おらんっちゃんね~。」(再び九州弁)って、同じこと言ったんだけど、「そっか~。」ってスルーして、何ヶ月もたってからその言葉を思い出したりとか・・・。

そう、私はアホ。
恋愛というテストはいつも落第点だ。

大人になってからも、だいたい、男の人っていうのは何で、女の子の話ばっかしてんの?とか、
何度も食事とか行って、すっごい仲のいい友達だと思っていて、「私たち親友だよね~」と言ったとたん、連絡もくれなくなったあいつ・・・とか、
突然告白したりするけど、あの、まともにお話もしたことないと思うんですが、それで「好き」って、何が好きなんですか?(いや、「何が目的なの?」が本心。)・・・とか、
男子の気持ちが全く理解不能だった。
(いやもちろん、私の気持ち悪い片思いだって、男子には理解できないと思うけど。。。)

私には、みんなが口々に連呼する、「愛」とか、「好き」とか、どうもいまいち理解できてなかったんだ、ずっと、長いこと。


それでも、まがりなりにも人間関係の中で学んできた。

そして、いつしか、自分の中で、巷で言われている「愛」と、全く違った「愛」があるってことを、ようやく発見した。いや、やっと「理解」できた?・・・(いや、もしかすると、思い出した?・・・)

究極は子どもに気付かされたのですが。

こんなに、何があっても「好き」と思いきれる関係があるなんて、今までの自分にはちょっと想像できなかった。
無償の、なんていうと大げさだけれど、何のためらいもなく、疑いの気持ちもなく、恥じらいもなく、相手がどう思おうとも関係なく、「好きだ!」と断言できる存在が、ここにある。

家族があるということが、私にとっては「愛」というものの、本当の、そして多分初めての本気の学びの場になったんだと思う。

もちろん、これは始まったばかりの事だけれど。

子どもが成長するにつれ、お互いが示す「愛情」の形も変わってくる。

それでも、この存在が与えてくれるゆるぎなさに、どれだけ驚かされているか。

そして一方で、自分の足りなさを目の当たりにさせられる。

自分が与えられる「愛」が、こんなにも貧相なものなのかと、愕然とさせられたり・・・

だけど唯一、「この人に嫌われたとしても、この人をずっと好きでいつづける。」という確信は、今までの自分が持ったことのない感情。

恋愛にあれだけ情熱不足だった自分が、理解不足だった自分が、人に対してこんな感情をもつ、というだけでもすごい変化だと思う。

そう、自分にも、自分の中にもこんな「愛」という感情が存在したんだ、という発見。

(これが落とし穴ってこともありそうだけど(笑)
「こんなに愛情そそいだのに、何で親の思い通りにならないの!」って、よくある親子関係の泥沼。)

もちろんこれは「恋愛」における「愛」の形とは違うけれど。

ただ、「愛」というものの本質についての学びを、ようやく、この歳で、始める事が出来たんだなあと。

あれはこういう事だったのか、とか、今になってみて理解できることが沢山ある。
それだけでも、人として、多少なりとも成長できたのかな、と。


それにしても、「愛」というのは、誰にとっても人生最大のテーマなのでしょう。
世の中には、そして私のまわりでも、「愛」の不在が満ち溢れている。

私だって、人に十分与えられるほどの「愛」を持ち合わせていない人間だ。

だけどもし、また「恋愛」というものに関わることがあったとしたならば、(確立はほぼないだろうけど。。。)今ならもっと違った理解ができるだろうと思う。
相手に対しても、そして何より、自分に対しても。

今は少なくとも、「愛」というのは自分の外側に存在するものではないということが、ちょっとだけわかったような気がするから。。。

私にとっては「満たされなさ」よりも、「与えられない」ジレンマのほうがテーマのようです。
いずれにしても、まずは自分自身を「愛する」ことなんですが。それはなかなか・・・簡単とはいえないかな。。。

子どものころから、親の「愛」を得るための、無意識の刷り込みを誰しもが少なからず持っているはず。
そのパターンからの脱却は、なかなか手ごわいテーマです。

せめて、そのパターンに気付いたなら、自分の子どもに同じ刷り込みをしないよう・・・

あ~、手遅れじゃないかなぁ~~(汗)


というわけで、まだまだ、これはスタートライン。

私たちが、人間として進化するためにはどうも、この「愛」がすべての鍵を握っているようですよ。




あなたは、自分の人生で、何かが不足していると感じていますか?


message


あなたは、「愛」を誰かに求めていますか?
「愛」は要求して得られるものではありません。
「愛」は見返りを求めないもの。
「愛」は与えるもの。
自分の本質が「愛」であることを思い出したなら、何かを探し求める人生は終わり、あなたがそこに存在するだけで、すべてが完璧であったということに気づくことができるでしょう。
そして、人生とは、それを人と分かち合う喜びの体験なのだということを、自然と理解できるでしょう。
花をみてください。
花は、「愛」そのものです。
人と「愛」を分かち合う人生というものを、花はあなたに教えてくれます。
あなた自身が、花となり、与える人となってください。



人類の愛と平和を語るとき、まず、あなた自身の心のうちに、愛と平和が存在することを認めてください。





「もしも、あなたが愛の考えで行きづまっていて、いったいどうなっているのか理解できないとすれば、あなたの問題は、愛をあなたの外に探し求めていることです。
あなたはあなたの人生に意味を与え、あなたという存在を正当化するために誰かを探し求めているのです。その人が見つからないと、あなたは怒りを覚え、自分は価値のない存在だと感じます。これがあなた方が育てられてきたパターンで、それはあなた方の両親や社会が教えてくれたものです。
何度もくりかいえしていってきたように、あなた方にできる一番大切なことは自分自身を愛し、地球を尊敬することです。
しかし、あなた方はいつもこのことを忘れては自分自身を完全な存在にするために、次の人間関係を探し求めています。
あなた方は誰かとの関係が何かなければ、一人前でないと感じるのです。
したがって、あなたは孤独を感じます。一人でいるということをマスターしなければなりません。孤独感とは、単なる気持ちの状態にすぎません。
(中略)
あなたが自分自身を愛し、誰か別な人に自分を愛してもらう必要性にこだわることを止めれば、誰かが提供するものを受け入れることができるようになります。
自分自身を大切にして、まやかしの愛に満足してはいけません。
もし、あなたがパートナーを探すことに決め、あるいは誰かと周波数を交換することを決めたのに、現れた人が自分が望んでいたような人ではなかったとしても、その人を自分のニーズに応じるように変えようとして愚痴をこぼしたり、文句をいったり、ふくれっ面をしたりしないでください。
あなた自身の価値観を設定したのに、それが創造されなかったならば、そのときはあなたの現実を変えて、あなたの価値観を反映する人に出会うまで、一人で道を歩き続けてください。
その間、自我への愛の周波数を出しつづけ、自我を尊重し、地球での旅は他人との関係において”自分を発見する旅”であることを理解してください。
夫や妻ということだけではないのです。地球での旅は、多くの存在の生命に触れていくなかで、あなたの肉体を尊重し、自我の独自性を尊重する旅です。
つねにあなた自身が自我とともに活動し、自我を進化させてください。」

『プレアデス+かく語りき 地球30万年の夜明け』より
[PR]
by kamakuraecolife | 2012-10-15 02:48 | スピリチュある?

ニルヴァーナ

ババジ、かの ラマナ マハルシのお弟子さん。


「サムサーラとニルヴァーナ」

http://www.youtube.com/watch?v=oMj_txh6ztc&feature=player_detailpage


最初に誰かから、

「人生とは、一つの映画のフィルムを自分で作り出し、それを見ているようなもの」

と言われたとき、その意味がちっとも理解できなかった。


でも、それなりに年をとると、人生はそういうものだということの片鱗が、理解できたような気もする。

ニルヴァーナの記憶は誰もが持っているのだと思う。

私たちはそれをどこかに置き忘れてしまっているだけ。

どうして?

今、この瞬間だけに存在する、ということを、自分自身で作り出した騒がしい映画のフィルムに夢中になりすぎて、うっかり忘れてしまっている。


「Stop thinking...」





これは、至福の瞬間です。
気づきは、一瞬で人の人生を変えてしまうもの。
自分の内にあるものに、目覚める瞬間。
beautiful!!(このタイミングにこの映像をシェアしてくれた友達に感謝。)

http://www.youtube.com/watch?v=H14cQg1jTcs&NR=1&feature=endscreen


人生の、至福の瞬間は、「いま ここ」だということ。

「Stay here...」
[PR]
by kamakuraecolife | 2012-10-09 15:48 | スピリチュある?

-癒しって。

免許の更新のために警察署に行き、事故だ、慰謝料だと、暗い話を聞かされ・・・
ああ、やっぱり二度と車のハンドルは握るまい、と、どんよりした気分で講習会を終える。

しかも5年前の免許証と、今回の免許証を見比べ、
「やっぱ私年とったな~」としんみり。。。
(今回も当日写真撮るっていうのを忘れていて、不意打ちの写真撮影だったわ!毎回この写真を人目にさらすのか~。とほほ・・・笑)

しかし、外に出るとこの風景が。

警察署の裏側は人気のないビーチ。


f0204458_16345843.jpg



癒されるとは、こういう事ですね。

自然の静かなエネルギー。
昔の海は、どこもこんなに綺麗だったんだろうな。。。
[PR]
by kamakuraecolife | 2012-10-04 16:34 | 沖縄生活