カテゴリ:スピリチュある?( 17 )

富士山気になる。

先月の終わり頃だったか、娘がお手製の封筒をいくつか見せてくれて、

「これは自分に書いた手紙なの。」と。

4、5通の封筒はどれもきっちりテープで封がしてあり、開けられないようになっていた。

「ふーん、中は見れないんだ~。」と言うと、

「ひとつだけいいよ。」と、1通の封筒を開封してくれた。

中には、山の絵が描かれた紙が1枚。
その山からは、石のような、雪のような丸い物体が吹き出している。

「これ雪?」と聞くと、

「ううん、これは富士山。ぼーんって、爆発してるの。」

以前は時々富士山の絵を描いたりしてたけれど、ドイツに来てからすっかり忘れてしまったものと思っていたら、久々の富士山。

しかし、噴火してるんだ・・・



するとその翌日、沖縄の友人から、一通のメールが転送されてきた。

沖縄の神んちゅさんからのメールで、地震、そして富士山の噴火のことが書かれていた。


あら、昨日娘も富士山の事話してた。なんという偶然。と少々驚いたけれど、どちらも「噴火」の事をいっているので、なんとなく・・・・気になるシンクロニシティー。


そしてその3、4日後、

河口湖の水位が突然4~5mも低下したというニュースが。

また富士山!


そして今日、富士山の林道の地割れのニュース。


もしかして、近いのかな?本当に・・・

100年おきに噴火していた富士山が、ここ300年も噴火をしていない、ということのほうが特殊な状況ならば、いつ起こってもおかしくはないのだけれど・・・


娘の他の封筒には何が書かれているのかは謎だけれど、時々、子供というのはこういう勘を発揮することがある。

予言とか、そういう類ではないけれど、「なんでこのタイミングでそれ!」とか、
「なんでそれがわかったの!」みたいな・・・。

まだ動物的勘(第六感?)が研ぎ澄まされている年齢なのかもしれない。


今回は、実際の富士山噴火の兆候に反応しているのじゃなく、ただこの一連の富士山の活動に反応しているだけであればよいのだけれど。
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by kamakuraecolife | 2013-04-11 05:18 | スピリチュある?

腑に落ちた。

ちょっと乱雑な文だけれども。
思いついた時に書いておきます。。。


ここのところずっと、繰り返し読んでいる本がある。

「時間のない領域へ」
「魂の絆」  
マイケル J ローズ 

今までずっと、「時間というものは存在しない」とか、「現在・過去・未来というのは、直線的時間の中での定義であり、本来時間というものは一直線に流れているものではなく・・・」などという話を聞くたびに、なんだか雰囲気としてはわかるような気はするけれど、でも、実体験できるわけじゃないから、
「過去の出来事が未来でもあり・・・」「過去を変えることができる・・・」って、え~、どういうこと?なんて、頭の中でシュミレーションしてみるのだけれど、どうもしっくりこない、と、もどかしさを感じていた。

だけど、この本を読んだとき、この体験がリアルに自分のもののように感じられて、(何というか、自分自身がまさに体験したような・・・した記憶を思い出したような・・・?)ようやく、「そういうことか!」と、腑に落ちた。

未来の自分が過去の自分にどう影響を与えているのか、ということ、

今この瞬間に、過去の自分も、未来の自分も存在しているということ。
(その意味では、前世というものは存在しなくて、その違う生を生きている自分も、またこの瞬間に存在しているということ)

最先端の物理学でも、時間は伸び縮みする、ということが言われたりしているようだけど、(量子力学の世界、ヒモ理論と言われているものでも、結局まだ結論が出たわけではないようだけれど・・・)単純に好きなことをしていると時間が短く感じ、嫌いなことをしていると時間が長く感じる、これは、単に感じる、というだけでなく、実際そうなんだ、ということ。

ヨーロッパに住んでいると、いくつかの国ではサマータイムが採用されていて、ある日突然、時計の時間を1時間早めたり遅らせたりしなきゃいけない。
時間が増えたり減ったりするんだ・・・

普段は時間に縛られて生活しているけれど、そう考えると、案外時間なんていい加減なものだ。

ある国では夏のある日に、勝手に時間が伸びちゃうんだから。


一度、自分にも「時間が消滅する」という体験があった。

カフェで働いていた時のこと。
その日は余りの忙しさに、とにかく無言でじゃんじゃん洗い物を片付けていた。。。
みんなそれぞれの役割に徹底して、まるで機械のように、それでも流れるようなスムーズさで仕事をこなしていた。
私はただただ、無心で目の前に積まれた洗い物を片付けていた。
自分には、その時間がほんの5分ほどに思えた。
ふと、我に返って時計を見たら、なんと1時間近くたっていたのだ。

見間違い!?と思って何度も確認したけれど、やっぱり1時間近い時間が過ぎていた。

あれは何だったんだろう、と時々ふと思い出すことがあるのだけれど、なんとなく、あの時の感覚を思い出すと、「時間がない」というのは、ああいう感覚なのかな、と思ったりするのだ。

まあ、それはとにかく、この本を読むという体験は、「時間」についての自分の感覚を大きく変化させてくれた。

「時間がない」という世界がどういうものか、ということを、リアルに体験させてくれた本。



そして、「自分自身が現実を創造する」ということについても。


「自分の現実は自分が創造している」ということについて、ずっと自分の中で腑に落ちない事があった。

世の中に起こる色んな出来事に対し、反応している自分。

でも、その反応こそが自分の人生を作っているとしたら、この反応の仕方を変えれば自分の人生は変わるということ、それはなんとなくわかる。

でも、例えば一つの事例として、

今、自分は原発に反対している・・・

その事を、自分は自分の人生にどう反映させているか、ということを考えてみる。

後始末をしない人たちに対して、怒りとして対応したならば、自分は怒りを人生に反映させる。
怒りを自分の人生で表現していくことになる。

自分は怒りというよりは、ただ単に、真っ当な対処をして欲しい、普通に安全な生活を送れる環境を選びたい、それを訴えたいだけなのだけれど・・・これも、一歩間違えれば怒りの表現になってしまうかもしれない。
それは、気をつけてはいる、というか、怒りは物事の解決には結びつかないと思っているけれど、無関心でいる自分はやはり納得できないのだ。

このバランス、というか、主張することと無関心でいることの間、という位置に、バランスよくおさまるのは・・・難しい。

そもそも、だったら何も考えずに・・・というか、何も知らずにいた方がいいのだろうか、と思ったりもするのだ。

でも、本当にそれでいいのか!・・・答えは堂々巡り。


だけど理解できたこと、それは、人は、それぞれ違った視点で、違った世界を見ている、というここと。

本当にそれは、驚く程、それぞれに違った世界なのだ。

311後に数人の人のブログを閲覧していて、その事にはっきりと気付いた。

当たり前のことだけれど、それぞれの人が、それぞれのフィルターを通して見たものを伝えている。

誰かが間違っている、というわけではないけれど、客観的に見てみると、その人たちそれぞれの見る311後の世界が、それぞれ、実に違った風に展開していっているのだ。

「自分の現実は自分が創造している」というのは、こういうことか、と、その時にはっと気づかされた。

例えば、だけれど、違う国で311後の福島の現状など知る由もない人にとって、当たり前だけれど、それは「その人の現実にはない世界」の話でしかない。

反対に私たちだって、今紛争で傷ついている人たちのことを、いったいどれだけ現実のこととして受け止めていられるだろうか?

その人たちの見る世界には、フクシマは存在せず、目の前にある戦闘を生き抜くための、死と隣り合わせの現実が繰り広げられているのだ。

そう、世界は広く、ひとりひとりの人は、違った現実を生きている。今この瞬間に。

それは、いくつもの映画が、何億本も、同時に上映されているような状態と言えるかもしれない。


フェイスブックなんかも、興味深い現実だ。

一人の人のタイムラグを追ってみたとしたら、全くオリジナルなその人の人生の一部をたどってみることができる。

友達であったとしても、全く違う日常、違う視点で日々過ごしていることがわかる。

だから、いわゆるサイキックと言われる人や、アカシックレコードを読み取れる人というのは、このコンピューターの世界のプログラムを、自由に渡り歩く事のできるツールを持った人の、別バージョン?みたいな人の事だ。

そういう意味でも、科学の世界と、スピリチュアルと言われている世界は、いつか融合していくものなのかな、と思ったりする。


話があちこちに飛んでしまったけれど、要は、自分が「現実」だと思っていることが、他の人にとっては全然「現実」じゃない、ということ、それくらい、「現実」なんて個人的なモノでしかない、という事が、よ~く理解できたような、、、気がする。


あとおまけにもう一つ、


この本の中に、「善も悪もなく、ただそれぞれが進化の中での役割を果たしているだけ」というのがあって、それはまさに、自分のモヤモヤの答えとなった。

いわゆるイルミナティとか、グレイとかいわれている存在も、宇宙全体の進化の中での役割を担っている。
宇宙の始まり、全てのものの始まりは「一つ」であるという定義をするならば、「彼ら」「私たち」という区別は究極的には存在しない。
だから、彼らの役割さえ尊重する。

今まで、スピリチュアルな世界を覗いていると、いわゆる「悪役」扱いの存在が登場してくること、どこか、その事を不自然に感じていた。

「私たちは一つの源からきている」
と言いながらも、
「あいつら」
がいるって、どいうこと?
それじゃあ、「善と悪の二元論」と同じじゃないの?と。

でも、その事に、実にしっくりとくる答えを出してくれたのも、この本でした。

究極的には「愛」だ、と。

それは・・・解っているつもりだけど・・・・だけど。。。


最後に、

怒りによって起こした行動は、怒りとして帰ってくる。
恐れによって起こした行動は、恐れとして帰ってくる。

自分の創造したもの、想像したものは、自分に戻ってくる、という単純明快なしくみ。

これも、今まで「うんうん、解った解った。」なんて解ったつもりでいたけれど、一見、「~のために!」と善意からおこしているつもりの行動でさえも、その動機を吟味してみたならば、「~のために」なっていない、という落とし穴が、実は、身近なところにある、という事にも気づかされました・・・

それは、例えば、森林破壊による生態系の崩壊を「恐れて」植林を始めたとしたなら、その「恐れ」が現実に現れる、ということ。

そうではなくて、自然に対する愛、尊重の気持ちを持って「植林」したならば、その「愛」が現実に現されるということ。。。

等など。


あ~、なんだか、色んな事がすっきりした。



メモ書きのようにつらつら書いてしまったけれど、興味のある方は是非。
他の著書もたくさんの気づきを与えてくれると思います。
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by kamakuraecolife | 2013-04-07 06:26 | スピリチュある?

見えないものを見る目

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数日前、子供と電車に乗っていたとき、娘が唐突に話し始めた。

娘 「電車には、見えない人達が座っていて、みんな知らないでその人たちの上に座ってるんだよ。」

私 「え?」

突然のことだったので、思わず返答に困ったけれど、なるべく平静を装って、

私 「ふ~ん、そうなんだ。その透明な人達が見えるってこと?」と聞き返す。

娘 「ううん、私は見えないよ。○○(クラスでの一番の仲良しの女の子)が教えてくれたの。」

内心、よかった、娘が見えるってわけじゃないんだ、と安心。

私 「そっか、○○にはその透明な人達が見えるんだ~。」

娘 「そうそう。おうちでかくれんぼしても、透明だから、なかなか見つけられないんだって。」

娘 「ほかの人には見えないんだって。○○だけが見えるんだって。」


娘がそのことについてどう思うのか、聞いてみればよかった、とも後で思ったけれど、きっと、

「私はね、妖精とか、エンジェルみたことあるんだよ~。」
と、きっと話がそっちに行ってしまいそうだ・・・(娘の場合はストーリーの創作だから・・・)



子供の中には、いや、大人も含めてだけれど、他の人には見えないものが見える人達がいる。

今までも何人かそういう子供や大人に会ったことあるけど、面白い事に、みんな、それぞれ見えているものが大なり小なり違っている、ということ。

私は、目に見えないラジオの電波と同じで、それぞれの人のアンテナが、違う周波数をキャッチしているからだと理解しているけれど、それくらい、多重な次元が存在している、ということなんだろうなと。

多次元世界なんて言われたりするけれど、大多数の人はいわゆる、この現実、三次元の世界を見る視力しかない。
普通の生活をするには、一番便利なフォーカスの仕方ではある。

江原さんとかもそうだけれど、きっと、現実以外の層が見えてる人の中には、大変な思いをしている人もたくさんいるんだろう。実際、そいういう話も聞く。


以前、六本木で仕事をしていた頃、スタッフの一人がいわゆるそういう男の子で、近くに青山墓地があるため、しょっちゅう具合が悪い、と言っていた。

しまいには、電車に乗ってこちらへ向かうと、意識が無くなるほど眠くなってしまう、と言って、何度も遅刻してくるようになってしまったので・・・

本当に可哀想だ、と思いながらも、少人数でやっているお店では、毎度の遅刻や突然の欠勤は、営業出来るかどうかにかかわるものすごい痛手なので、辞めてもらったことがある・・・。

もちろん、それだけが理由ではなかったけれど、その点では、可哀想だな、と、同情していた。
本人は本当に大変そうだったから。

私は、その同じビルで、時には深夜までたった一人で残業しなくてはいけないことがあったけれど、空っぽのビルの中にいても、何も見えなかった。

見えてたら、仕事にならなかっただろう。

内心、「あの子、ここに色々いる、って言ってたよな~。」と、気味悪く思いながらも、とにかく仕事を終わらせなきゃいけなかったので、見えない自分の能力(?)を、その時は有り難く思っていた。


そんな自分も、今まで、「あれは一体なんだったんだ?」と思うような経験をしたことはある。


一番印象的だったのは、長崎で学生をしていた頃。

下校中のこと。

向こう側から歩いてくる人の中に、不思議な人が混ざっていたのだ。。。

子供くらいの身長で、ふにゃふにゃと歩いているのだけれど、手足が棒のように細くて・・・
確か帽子をかぶっていたのか、顔はよく見えなかったのだけれど、全部が、紐のように細い人。


一瞬、え!と思ったのだけれど、まずは理性が、
「ひょっとしたら、何かの病気の人かもしれないから、ジロジロ見ちゃ失礼!」と判断し、
何事も無かったように、その人を目の端でとらえながら、すれ違った。

振り返りたい気持ちを抑えながら通り過ぎたのだけれど・・・

後になって思ったのが、私以外の誰も、というか、私と同じように、他の誰もが、彼のことを見ていなかった、という不自然さ。

通りの反対側、彼の前後、数人の人が歩いていたけれど、誰も、何も見えないかのように、彼のことを気にもとめてなかった、ということ。

せめて、チラリ、とでも反応した人がいれば、私ももう少し現実として受け止めることができたかもしれなかったのだけれど・・・

本当に、「彼」はあの場に存在したのだろうか??

それとも、一瞬、どこか違う次元の人が迷い込んでいた??


大人になって、その事を友人に話していたら、なんと、

「私も見た!」

という人がいたのだ。


彼女も、時折、不思議な経験をするタイプの人だったけれど、私の見た「彼」と、その風貌が話の上ではぴったり一致するのだ。

彼女は関東の人だから、同一人物の目撃とは思えないし・・・

そして、どうやら、ネット上で「ヒモ人間」と呼ばれて、目撃例があげられているのだ・・・と。
(私は未確認ですが。)

未だに「彼」については謎なんだけれど、彼女が見たシチュエーションも、もし、それが病気や特定の症状の人だとしたら、ありえない状況だったというし、私が見た「彼」も、あのヒモのような細い手足で、誰の補助もなく、一人で街中を歩くということが可能なのかどうか・・・わからない・・・

(もしも、そういう症状の方がいらしゃったら、ごめんなさい。でも、骨の細さよりはるかに細い手足、そして極細の体で、たった一人で外を歩けるということが可能なのか・・・)


このことは未だよくわからないことの一つ。

他にも、夢日記にまつわる不思議な出会いなんかもあったけれど、私の場合は実際に「見る」ということは、ほとんど無い。

だけど、見えないからといって、見える人の「見る」ものが存在しないとは言えない。

「○○ちゃん」の見ている「透明な人たち」は、きっとどこかの場所に存在するものなんだと思う。
もともと、人は、3次元的な目には見えないものを見る「能力」(霊的視力?)を、持っていたはずなんだと、私は思ってる。
一部の人は、その感覚を今でも持ち続けているんだろう。

そもそも、ラジオ電波だって、無線電波だって見えないし。
赤外線も紫外線も。
空気だって。
私たちが神社で手を合わせている神様だって。

だけど、自分に見えないものは「存在しない」と言い切る人がいるのも事実。

そして、その「見えないものを見る人」を否定する人がいるのも事実。

いやもちろん、中にはそういう事を利用して、お金に結びつけようとする人がいないわけではない・・・(そういう人にはのちのちバチが当たるよ!)

色んな人がいていいじゃない。
見えないからといって、「無い」と言い切れることの方が、自分には驚きなんだ。


そんなの単なる想像?

いや、その想像力こそ、欠けてる・・・特に大人・・・が多い。

だから世の中、なんだかな、と思う事がたくさんある。


人の心の中や、感情、思いも、目には見えないものだけど、想像してみることはできる。
社会の事件や何やらを見ていると、この「想像力の欠如」が決定的な要因のように思える事がよくある。

どうか、子供たちには、この「想像力」だけは失わずに大人になって欲しい。

「自分がこう言われたらどう思うだろう。」
「自分がこうされたらどう感じるだろう。」

そうすれば、いじめや、虐待も減るんじゃないかと思うんだけれど。

世の中そんなに単純じゃあないかもしれない。

だけど、せめて、子供たちが想像できる、最大限の「楽しいこと」「幸せなこと」が、大人の「想像力のなさ」によって打ち砕かれる事のない社会であるように・・・
(いや、すでにそうなってしまっているけれど。)

大人になる過程で捨ててしまった心の光を、広い集めていかなくてはいけない時代なのかもしれない。
大変な時こそ。

透明な人が見えなくても、透明な人が見える子供の心を想像できる大人でありたいなぁと・・・
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by kamakuraecolife | 2013-03-28 03:08 | スピリチュある?

誰のために殺すのか?

毎日、世界のどこかで戦争・紛争が起こっている。

自分は直接的には関わっていないようなつもりでいるけれど、実は、気づかない部分で、必ず加害者の側に繋がっている。


銀行に預けている貯金。

その銀行は、世界のどんな企業に融資しているか・・・
武器を製造する国外の企業に、日本の大手銀行は投資している。


毎日の食べ物。

どこかの大企業が、農民から搾取した作物を使っているかもしれない。
巨大農場、食品工場が、その地域の自然を汚染し、それによって破壊された自然環境が紛争の火種となっているかもしれない。


衣服、そして家のなかの家具たち。

安いから、と安易に購入する衣料品のほとんどは、安い労働力と資源の搾取によって作られている。
綿花を作ることで、どれだけの土地が農薬によって荒らされ、大量の水が川や湖から消えているか。
家具に使われている安い木材は、熱帯雨林や他国の森を切り開いて、運ばれてくる。
土地を破壊され、貧しくなっていく国々は、資源を奪い合う。
物流にもかかせない石油こそ、紛争の火種となっている。

そんなことを拾い上げればキリがない。

だけど、私たちの生活は、だれかの犠牲の上に成り立っているものだということを、きちんと認識しなくてはいけない。
綺麗事じゃない。
これが私たちの現実だから。


今日本は国民皆兵制へと進む危険をはらんでいる。

自分たちの子供が、将来、戦地へ赴く可能性があるということだ。


もしも自分が銃を持ち、戦地で戦わなければならなくなった時、何を考えるだろうか。

銃口を敵に向けて照準をあわせ、引き金を引く瞬間、何を思うだろうか。


時々、その情景がリアルに、自分の眼前に広がってくる。


そしてある時、ビジョンを見た。

ひょっとしたら、こんな話をどこかで聞いたのかもしれない。

だけど、私自身は完全にそのビジョンの中に存在する一人で、リアルに、これを体験したのだ。


私は、すべての人に、このビジョンを体験してもらいたいと思った。

多くの人が、そのビジョンを共有することで、それは現実になるから。

これは、今この瞬間に、世界のどこかで起こる物語。





一人の兵士が、荒涼とした丘陵地帯の地面に這いつくばって、銃を構えている。

周囲には、同じ部隊の若い兵士たちが、同じように息を殺して銃をかまえ、身を伏せている。

この先に続くでこぼことした砂山の、その岩影に、敵が潜んでいることは確実だ。


どちらが先に攻撃を仕掛けるのか。

沈黙の時間が過ぎていく。


兵士は、ぴったりと銃に身を寄せながら、遠くの敵の影を探す。
相手も、同じように自分を探しているはずなのだ。

見ず知らずの相手とのにらみ合い。
知らないはずの相手の顔が、眼前に浮かぶ。

どんな相手が、自分を狙っているのだろう。。。

今にも、相手の放った銃弾が、自分の体を貫くかもしれないのだ。


緊張の限界にあった兵士の心に、ふと、押し殺していた疑問が浮かんできた。

いったい、自分は、知らない相手になぜこんな殺意をもたなくてはならないのだ?

いったい、相手を殺すどんな理由が自分にあるというのだろう?
自分が相手に殺されなくてはいけない理由は、何なのだろう?

自分が何をしたというのだ。
相手が、自分に何をしたというのだ。

自分たちはそれぞれ、幸福と自由の為に戦っていると思っている。
守りたい家族、仲間がいる。
それは、自分も相手も同じはずなのだ。

でも、その同じ思いをもった人間の幸福と自由を奪って、自分がそれを手に入れることが、幸福というものなのか?

そんなはずはない。

すべての人の幸福は、殺し合いから生まれるものではないはずだ。

人を殺した自分が、幸福になれるだろうか?

なれるはずがない。

それならば、私たちは、何を手に入れるために殺し合おうとしているのか?

誰のために?

いったい、誰のために?


兵士は突然、立ち上がった。

もう、自分のこの心の声に逆らうことはできないと思ったからだ。

「私は、だれも殺したくない。ただ、幸福な生活が欲しいだけなのだ。
誰かの命と引き換えに手に入れる幸福なんて、あるはずがない!」

兵士は叫び、銃を捨てた。


敵の兵士たちの銃口が、一斉に彼に向けられた。

その時、

近くに身を伏せていた兵士が立ち上がり、同じように、銃を捨てた。

そして、それを見た兵士がまた一人、また一人と・・・


次々と兵士たちは立ち上がり、静かに銃を地面に置いた。

味方の部隊全員が、銃を捨て、丘の上に立ち上がったのだ。


それを見ていた敵の部隊の一人が、岩の影から姿を現し、そして、銃を脇に投げた。

後ろを向き、仲間たちに声を上げた。

「うちに帰ろう。誰も殺す必要はないのだ。」


一人、そしてまた一人と、敵の兵士達が立ち上がり、銃を捨て、声をあげた兵士のもとに集まって来た。


両軍の兵士たちは、遠くてお互いの顔は見えなかったけれど、心の目で、相手の目を見つめた。

両軍の兵士たちは、お互いに背をむけ歩き始めた。


兵士たちの去った後には、使われなかった銃だけが残されていた。



戦争は終わった。

世界中の戦場で、その瞬間に、すべての兵士が銃を捨てたからだ。



私は、最初に立ち上がる兵士となれるだろうか?
ビジョンの中で、私は彼自身でもあり、傍観者でもあった。

誰かが立ち上がるのを待っていたのでは、誰も立ち上がることはできないだろう。



この映像の中に、立ち上がった兵士たちの姿がありました。
彼らの心にある苦しみと、怒りと、悲しみが消え、本当の平和が訪れる事を願っています。

そして、子供たちには「殺す」ことを教えるのではなく、全ての人の平和のために、銃ではなく、「思いやる」心を持つということを教えられる大人でありたいと思います。


最悪な間違いだった...(目覚めはじめたアメリカ兵) .

http://www.youtube.com/watch?v=R4Z1avRGWiU
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by kamakuraecolife | 2013-03-20 20:55 | スピリチュある?

愛って?

何かの本に書いてあった言葉。

「あなたがもし、何かが足りないと感じているとしたら、その原因はただ一つ、あなたがそれを人に与えていないということです。」

これは、「愛」というものに対しても、あてはまる名言だと思ったのですが。。。




むかしから、恋愛ネタとかにあんまり興味がなく、親しい友達からもずっと後になってから、「マミコの前ではなんとなく恋愛話はタブーな雰囲気だった。」と言われたりしてびっくりしたことがあった。

そしてなぜか、失礼なことに、私が「一生結婚しない」と思っていた友達が沢山いた。。。


確かに、20代の浮かれがちな年頃の時でも、どうしてみんな恋愛の話ばっかりするんだろ、他に話すことないのかな、なんて不思議に思っていたりもしたし、学生時代なんて片思いまっしぐら・・・というか、現実的な恋愛が出来ずに、ず~っと、飽きもせず、遠くに引っ越しちゃった同じ男の子のこと、ぼんやり片思いしてた不毛の青春(笑)

そこを通り過ぎたら、今度は「なんで男っていうのは、”男女の友情なんてありえない”なんて言うんだ!」「ゼロか100か、人間関係ってそんなもん?」と憤慨し、正直、げんなりしていたというか、男子に失望した長い冬の時代。

そうだ、恋愛というのは私の得意分野じゃない。

片思いといったって、頑張って振り向いてもらう!みたいなけなげな乙女心ではなく、「自分が好きだったらそれでいい」という、完全な自己完結型だったし・・・
ある意味、ストーカー的な?・・・(怖・・・)

こんなこともあった。ずっと片思いしてた先輩に、バレンタインデーにチョコを渡したとき、
「俺、今彼女おらんけん。」(九州弁)と言われて、
「そうなんですか~、もったいないですね。」とあっさり返答し、会話終了・・・

ずっと後になって、「先輩、何で私にあんなこと言ったんだろう?」と思い出し、友達に尋ねたら、「アホか。」と言われた。


その後も、何年も片思いしてた男の子が、「今、彼女おらんっちゃんね~。」(再び九州弁)って、同じこと言ったんだけど、「そっか~。」ってスルーして、何ヶ月もたってからその言葉を思い出したりとか・・・。

そう、私はアホ。
恋愛というテストはいつも落第点だ。

大人になってからも、だいたい、男の人っていうのは何で、女の子の話ばっかしてんの?とか、
何度も食事とか行って、すっごい仲のいい友達だと思っていて、「私たち親友だよね~」と言ったとたん、連絡もくれなくなったあいつ・・・とか、
突然告白したりするけど、あの、まともにお話もしたことないと思うんですが、それで「好き」って、何が好きなんですか?(いや、「何が目的なの?」が本心。)・・・とか、
男子の気持ちが全く理解不能だった。
(いやもちろん、私の気持ち悪い片思いだって、男子には理解できないと思うけど。。。)

私には、みんなが口々に連呼する、「愛」とか、「好き」とか、どうもいまいち理解できてなかったんだ、ずっと、長いこと。


それでも、まがりなりにも人間関係の中で学んできた。

そして、いつしか、自分の中で、巷で言われている「愛」と、全く違った「愛」があるってことを、ようやく発見した。いや、やっと「理解」できた?・・・(いや、もしかすると、思い出した?・・・)

究極は子どもに気付かされたのですが。

こんなに、何があっても「好き」と思いきれる関係があるなんて、今までの自分にはちょっと想像できなかった。
無償の、なんていうと大げさだけれど、何のためらいもなく、疑いの気持ちもなく、恥じらいもなく、相手がどう思おうとも関係なく、「好きだ!」と断言できる存在が、ここにある。

家族があるということが、私にとっては「愛」というものの、本当の、そして多分初めての本気の学びの場になったんだと思う。

もちろん、これは始まったばかりの事だけれど。

子どもが成長するにつれ、お互いが示す「愛情」の形も変わってくる。

それでも、この存在が与えてくれるゆるぎなさに、どれだけ驚かされているか。

そして一方で、自分の足りなさを目の当たりにさせられる。

自分が与えられる「愛」が、こんなにも貧相なものなのかと、愕然とさせられたり・・・

だけど唯一、「この人に嫌われたとしても、この人をずっと好きでいつづける。」という確信は、今までの自分が持ったことのない感情。

恋愛にあれだけ情熱不足だった自分が、理解不足だった自分が、人に対してこんな感情をもつ、というだけでもすごい変化だと思う。

そう、自分にも、自分の中にもこんな「愛」という感情が存在したんだ、という発見。

(これが落とし穴ってこともありそうだけど(笑)
「こんなに愛情そそいだのに、何で親の思い通りにならないの!」って、よくある親子関係の泥沼。)

もちろんこれは「恋愛」における「愛」の形とは違うけれど。

ただ、「愛」というものの本質についての学びを、ようやく、この歳で、始める事が出来たんだなあと。

あれはこういう事だったのか、とか、今になってみて理解できることが沢山ある。
それだけでも、人として、多少なりとも成長できたのかな、と。


それにしても、「愛」というのは、誰にとっても人生最大のテーマなのでしょう。
世の中には、そして私のまわりでも、「愛」の不在が満ち溢れている。

私だって、人に十分与えられるほどの「愛」を持ち合わせていない人間だ。

だけどもし、また「恋愛」というものに関わることがあったとしたならば、(確立はほぼないだろうけど。。。)今ならもっと違った理解ができるだろうと思う。
相手に対しても、そして何より、自分に対しても。

今は少なくとも、「愛」というのは自分の外側に存在するものではないということが、ちょっとだけわかったような気がするから。。。

私にとっては「満たされなさ」よりも、「与えられない」ジレンマのほうがテーマのようです。
いずれにしても、まずは自分自身を「愛する」ことなんですが。それはなかなか・・・簡単とはいえないかな。。。

子どものころから、親の「愛」を得るための、無意識の刷り込みを誰しもが少なからず持っているはず。
そのパターンからの脱却は、なかなか手ごわいテーマです。

せめて、そのパターンに気付いたなら、自分の子どもに同じ刷り込みをしないよう・・・

あ~、手遅れじゃないかなぁ~~(汗)


というわけで、まだまだ、これはスタートライン。

私たちが、人間として進化するためにはどうも、この「愛」がすべての鍵を握っているようですよ。




あなたは、自分の人生で、何かが不足していると感じていますか?


message


あなたは、「愛」を誰かに求めていますか?
「愛」は要求して得られるものではありません。
「愛」は見返りを求めないもの。
「愛」は与えるもの。
自分の本質が「愛」であることを思い出したなら、何かを探し求める人生は終わり、あなたがそこに存在するだけで、すべてが完璧であったということに気づくことができるでしょう。
そして、人生とは、それを人と分かち合う喜びの体験なのだということを、自然と理解できるでしょう。
花をみてください。
花は、「愛」そのものです。
人と「愛」を分かち合う人生というものを、花はあなたに教えてくれます。
あなた自身が、花となり、与える人となってください。



人類の愛と平和を語るとき、まず、あなた自身の心のうちに、愛と平和が存在することを認めてください。





「もしも、あなたが愛の考えで行きづまっていて、いったいどうなっているのか理解できないとすれば、あなたの問題は、愛をあなたの外に探し求めていることです。
あなたはあなたの人生に意味を与え、あなたという存在を正当化するために誰かを探し求めているのです。その人が見つからないと、あなたは怒りを覚え、自分は価値のない存在だと感じます。これがあなた方が育てられてきたパターンで、それはあなた方の両親や社会が教えてくれたものです。
何度もくりかいえしていってきたように、あなた方にできる一番大切なことは自分自身を愛し、地球を尊敬することです。
しかし、あなた方はいつもこのことを忘れては自分自身を完全な存在にするために、次の人間関係を探し求めています。
あなた方は誰かとの関係が何かなければ、一人前でないと感じるのです。
したがって、あなたは孤独を感じます。一人でいるということをマスターしなければなりません。孤独感とは、単なる気持ちの状態にすぎません。
(中略)
あなたが自分自身を愛し、誰か別な人に自分を愛してもらう必要性にこだわることを止めれば、誰かが提供するものを受け入れることができるようになります。
自分自身を大切にして、まやかしの愛に満足してはいけません。
もし、あなたがパートナーを探すことに決め、あるいは誰かと周波数を交換することを決めたのに、現れた人が自分が望んでいたような人ではなかったとしても、その人を自分のニーズに応じるように変えようとして愚痴をこぼしたり、文句をいったり、ふくれっ面をしたりしないでください。
あなた自身の価値観を設定したのに、それが創造されなかったならば、そのときはあなたの現実を変えて、あなたの価値観を反映する人に出会うまで、一人で道を歩き続けてください。
その間、自我への愛の周波数を出しつづけ、自我を尊重し、地球での旅は他人との関係において”自分を発見する旅”であることを理解してください。
夫や妻ということだけではないのです。地球での旅は、多くの存在の生命に触れていくなかで、あなたの肉体を尊重し、自我の独自性を尊重する旅です。
つねにあなた自身が自我とともに活動し、自我を進化させてください。」

『プレアデス+かく語りき 地球30万年の夜明け』より
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by kamakuraecolife | 2012-10-15 02:48 | スピリチュある?

ニルヴァーナ

ババジ、かの ラマナ マハルシのお弟子さん。


「サムサーラとニルヴァーナ」

http://www.youtube.com/watch?v=oMj_txh6ztc&feature=player_detailpage


最初に誰かから、

「人生とは、一つの映画のフィルムを自分で作り出し、それを見ているようなもの」

と言われたとき、その意味がちっとも理解できなかった。


でも、それなりに年をとると、人生はそういうものだということの片鱗が、理解できたような気もする。

ニルヴァーナの記憶は誰もが持っているのだと思う。

私たちはそれをどこかに置き忘れてしまっているだけ。

どうして?

今、この瞬間だけに存在する、ということを、自分自身で作り出した騒がしい映画のフィルムに夢中になりすぎて、うっかり忘れてしまっている。


「Stop thinking...」





これは、至福の瞬間です。
気づきは、一瞬で人の人生を変えてしまうもの。
自分の内にあるものに、目覚める瞬間。
beautiful!!(このタイミングにこの映像をシェアしてくれた友達に感謝。)

http://www.youtube.com/watch?v=H14cQg1jTcs&NR=1&feature=endscreen


人生の、至福の瞬間は、「いま ここ」だということ。

「Stay here...」
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by kamakuraecolife | 2012-10-09 15:48 | スピリチュある?

贈り物

数年前、東京で行われたダライラマ法王の講演会に行ったときのこと。

司会をしたとある女優さんが、講話が終わったあと、ダライラマ法王に挨拶をしたとき、首にスカーフをかけてもらっていたのだけれど、最後の司会の挨拶の場面で、おもむろにそのスカーフをさっとはずして(どちらかというと、かなり無造作な感じで・・・)壇上に上がったのをみて、ちょっとビックリしたことを覚えています。

彼女が慌てて壇上に上がった姿から、そのスカーフを外すことが彼女の中では「自分がいただいたものを見せびらかすような行為をすまい」という、仕事モードに入ったことによる一瞬の判断だったのだと、私は勝手に理解してはいるけれど、

ダライラマから首にかけてもらったスカーフを、あんな風に無造作に外すなんて・・・

私なんてこの人生の中で、ダライラマと直接対面することはもちろん、あんな風にスカーフをかけていただけるなんて、起こりえないことなのに、、、

いいなぁ~、

という、羨みの気持ちがあったからでしょう、妙にその場面が印象に残っていたのでした。。。



ダライラマ法王、この不思議で神聖な存在が、この地球上に「在る」ということが、どれだけ世界のバランスを保っていることか。

ただ、どうやらこの「ダライラマ」としての転生が、これで最後になるという話も・・・?
(マヤ暦の終了やら、2012年のもろもろのことが、このことにも関わっているのかしら?)


とにもかくにも、私にとっては、この輪廻転生を体現した存在が公に認められている、ということだけでもチベットという国は特別な意味があり、そして、法王の数奇な人生が、(そしておちゃめなキャラクターが)この現在にも進行しているということの不思議さ。

スピリチュアル的にも、チベットは昔から特別な場所とされています。

そういえば、「ハトホル」さんたちも、チベットのラマ層たちと深いつながりがあると言っていました。。。



さて先日、めでたく誕生日を迎えた私。

娘と二人でささやかなお祝いをしていたその晩、ヨーロッパ出張中の旦那さんから画像つきのメールが。


「今日、近所に最近できたチベット料理屋さんに入ったら、ダライラマの写真を飾ってあったので、妻の誕生日のプレゼントにと、その写真をとらせてもらったら・・・」

「その法王の写真にかけてあったスカーフを、お店の人が誕生日のプレゼントにと、くれたんだ!」



!ものすご~い間接的ではあるけれど!

写真の法王からスカーフもらっちゃった~!(厳密にはお店の方ですが・・・)


「求めよ、さらば与えられん。」

この言葉は真実だ。。。
(このレベルで解釈してよいのかしら・・・)




しかも、このブログを書こうとして発見!なんと、11月に法王が那覇に来ると!!!


なんというか、なんとも言えません。
でも、現実は面白いゲームになっています。
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by kamakuraecolife | 2012-09-13 13:57 | スピリチュある?

巫女さん?

数日前、ペルセウス流星群がピークとなった時、どうも私の周辺の”巫女さん”たちに、異変が起こっていたようです。

我が家に久しぶりに遊びに来た
”巫女さん”(・・・さて、この仲間たちをなんと称すればよいのか。本業は巫女さんじゃないけど、一歩間違ったら巫女さん的な・・・シャーマン的素質を持った人たち。中には本業の方もいますが。)
が、「ちょっと聞いて~、こんなひどい事が起こったのよ!」と、数日前にあった悲惨な話を披露してくれました。

そして聞くところによると、もう一人の”巫女さん”も、そしてその場にはいなかったけれど共通の友人の別の”巫女さん”も、同じ日に、ものすご~く悲惨な体験をしていたことが判明。

「これはきっと流星群の影響なのかしらね~。」と。

何かの分岐点をみせつけられたような、「闇」の存在を顕在化させられたような体験だったようです。

話を聞いていた私も、同じ時期に、なにやら肉体的にも精神的にも、異常な不快感を感じることがあったことに気付き、むしろその原因がはっきりしたようでスッキリ。


星の動き、天体の動き、そして月の満ち欠けに反応するのは女性ならではの感性かもしれませんが、こういった女の人の直感的な繊細な感覚を、何かもっと社会の仕組みというか、現実に還元できる世の中になるといいのにな~と。
いや、以前はきっとそうだったのでしょう。

昔読んだ本の中に、「ほうきに乗った空とぶ魔女伝説は実際にあったことで、遠い過去に人が空を飛ぶ技術を持っていた時代、女性たちは満月の夜、空を飛んで遠くの友人に会い、情報交換していた」なんてことを書いてあったけど・・・

なんかわかる気がするな~。


そして周りにいる、まだ未自覚の”巫女さん”たちも、何やら気付きのタイミングに来ているような。

女性は誰でももっているシャーマン的感性が、これからどんどん開いてくる時期なのだと感じます。

別の友人”巫女さん”卵は、「いま開くと日常生活が大変になるから閉じときなさい」といわれ、蓋をとじられちゃっているようですが。。。

私は”巫女さん”的感覚とは違うのだけれど”巫女さん”発掘センサーはめちゃくちゃ働きます(笑)
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by kamakuraecolife | 2012-08-16 19:02 | スピリチュある?

エジプトそしてアセンション!?

ちょっと前から、なにやらエジプトがきてます・・・

ドランヴァロ メルギゼテクの「フラワー オブ ライフ」を、ついに真剣に読むタイミングが来てしまい、しばらくどっぷりと浸っていた影響も大だと思うのですが。

この本、以前から気になっていて、ちらっと手にしたこともあったけれど、
「だめだ・・・この左脳な感じは・・・今の私には無理・・・」と保留していた本。
しかも1、2巻あわせてけっこうなお値段になるし。
他の本に色々寄り道していたけれど、ただ、いつか必ず読むべき時がくるとは思っていました。

昨年あたりから、よし、今か!と思ってアマゾンへ行ってみたら、なんと1巻が在庫切れ。
この在庫切れの期間がけっこ~長くて、その間にあきらめモードになってました。

そうこうしていたところ、お友達の民ちゃんがセドナのシャーマンのツアーに参加することに。
「ドランヴァロも来るってよ。」

!そうか、今ってこと?

すぐにアマゾンをのぞいてみたら、なんというタイミング、数日前に1巻が再販されていた!


もう、読み始めたとたんに止まらなくなっちゃいました。
いや~、ドランヴァロさんすごい。

内容は、他の本なんかでも読み聞いた既知の部分が3割ほどだけれど、「ええ~、そうなんだ、そうだったんだ!」という目からウロコの話や、「それ、そこ知りたかった!」という内容も盛りだくさんで、神性幾何学の図形やらφやらπやら、サイン コサイン・・・普段使わない左脳がへとへとになる部分も読破して、はまってしまいました。

よく、オーラが見える人とか、アカシックレコードにアクセスできる人なんかが、その人の体とか、心の問題を視覚で感知していたり、その人の魂のルーツを見たりするのがいったいどういうもののかな、ってことも、納得。
神性幾何学。
マカバ。
イニシエートのサイン。(これは「マグダラの書」に書いてあった。)

それにしても、ドランヴァロさん一人の頭の中、人生に、これだけの、いえ、きっとこれ以上の知識と、そして体験がつまっているなんて、人間ってすごいな、と感嘆しきり。

ちなみに、本のなかに頻繁に登場する「スター・テトラヒドロン 星型二重四面体」、これを使ったワークなんかがあるのですが、実物ないとちょっとイメージしづらい。

「そうだ~、わたしこの形のペンジュラム持ってたのに、引越しの時以来、見かけない。なくしちゃったかな~」 と、残念に思っていたその矢先、

娘が、
「ママ、あの、私のテープ、ママがしまってあったやつちょうだい~」と、ある朝。

そこで普段開けない引き出しを開けたところ、そこにそのペンジュラムが!

まさに、ワークのページに突入したその日の朝の出来事でした・・・

このペンジュラム、オランダの老舗スピリチュアルショップで買ったのですが、いろんな形や石があるなかで、迷って迷って、えらんだクリスタルのスター・テトラヒドロン。

まさかここで役にたつとは・・・



そうこうしてるうちに、なぜか、そうだ、あの本も今読まなきゃ!と思い立ち、今まで保留にしてとっておいた2冊を同時に読み始めました。
「ハトホルの書」
「マグダラの書」

なんでこの3冊がセットなのか良くわからなかったのだけれど、読み終わって、その意味がわかりました。

エジプトか~、やはり。
秘儀参入者、イニシエート・・・


なんとな~く、つながりが見えた気がする。
自分にかかわることなのか、身近な人のことなのか、よくわからなかったのだけれど、昔から自分の夢によく出てくるシーン、

どこかの学校のような場所に通っているところ・・・

何かのグループとして旅をしていたり、避難?隔離?逃亡?していたりする夢。

イニシエート、魔女学校、なんだかずっと気になるキーワードだった。


そうしてるうちに、お友達と話していたとき、
「そうそう、私の友達にね、マミちゃんとおんなじ目をしてる人がいてね~、その子も魔女っぽいんだよ!」
とか、
「その目をしてる人、何人か知ってますよ。老若男女、みなさん、同じなんです。・・・あちらで、苦労されたんですよね・・・」などとわけのわからないコメントもらったり・・・

極めつけはセドナから戻った民ちゃんが、
「ね、『フラワー オブ ライフ』と、『ハトホルの書』と、『マグダラの書』もってたら貸して!」と!

なんで、セドナ帰りにいきなりこの3冊指定なの~!
・・・同じものをキャッチしたんだね、きっと。

そのメールが来た当日の朝、珍しく、家の窓の前の電線に鳩がとまって、鳴いていた・・・
鳩といえばエジプト、そしてハトホル・・・(これは駄洒落。)


そして、その後民ちゃんに会ってセドナで見た夢の話を聞いてひっくりかえりそうに!!

「なんか、プールみたいなとこに階段があって、そこに入ろうとするんだけど怖くなってはいれなかったんだよね~」

それ、それ、まさに「フラワー オブ ライフ」の中にあった、エジプトのイニシエーションの一つだってば!

民ちゃんは以前ハトホルとの繋がりを指摘されたこともあると言っていたから、これは、エジプトでのイニシエート時代の記憶なんじゃ?

・・・ワニの入ったプールのイニシエーション、失敗したんだね~(笑)

他にも、エジプトのイニシエーションに似た体験をして戻った民ちゃん。
やっぱり~。そうだったんだ~。なんて(笑)

そして私も、幼稚園のころになぜか、後頭部がなが~いおじさんのイラストにはまって、(多分、福禄寿か何かの絵をみたのか?)いつもいつも、後頭部が長いひとの絵を画用紙に描きまくっていた時代が。

ハトホルの人たち、後頭部長いんだそうです。3次元的なかたちをとると。

ちなみに、民ちゃんがお土産に「フラワー・オブ・ライフ」のステッカーを!
いや~ん、こういうの欲しかったの~。
本読んでるのしらないのに、キヤッチしてくれたんだ~。

さらにさらに、ちょうどドイツ出張から戻った旦那さんが、
「ホテルの近所にエジプトの博物館があって、そこでマミコにそっくりなレリーフ(銅像?)みつけたから、写真に撮ってきたよ」

と。

そう、昨年地元のお祭りで「福禄寿」のお面を掛けて行列に参加した旦那さん。


エジプト
ハトホル
マグダラのマリア
福禄寿・・・


いったい、みんなどこのソースにアクセスしてるんでしょう?
それぞれ何のエジプト情報もシェアしていないのに。
次はエジプトツアーにでも行く?

いえ、行く必要はないんです。(笑)
ハトホルさんたちがおっしゃってます。

「今日では、イニシエーションを体験しにエジプトなどの地に赴く必要はありません。
あなたが肉体を持ちながら人間関係や仕事や精神的・霊的探求でぶつかる試練こそ、高次意識にいたるための試験、つまりイニシエーションにほかならないのです。」

私たちは選んで、この大変な時期に地球に生受けているということ・・・
日々、イニシエーション真っ只中なそうですよ。
わかるな~。。。



「ハトホルの書」、これは是非、読んでみてください。

なんだか、とっても近い感覚でありながら、愛と、静謐としたエネルギーがひしひしと感じられる本です。
さらっと流し読みでもすばらしいフィーリングを感じさせてくれる本ですが、じっくり読み返すと、その一行一行に気付きのためのメッセージがちりばめられている、珠玉の書です。

ワークも難しくなく、すぐに取り組めるものばかり。

自分がずっとここしばらくフォーカスしていたグラウンディング、呼吸法、メディテーション、そのことの意味、本当の必要性に、改めて気づかされました。

ちなみに、改訂版にCDついてますが、これ・・・寝入りばなにワークしながらうとうとしてたら、すごいものを見ちゃいました。


「マグダラの書」については、ぱっと読んだだけだと「性魔術」的な話と誤解されることもあるかもしれないけれど、これもまた究極です。

人が肉体と感情をもち、生きていくということの意味、生命に男性性と女性性がそなわっていることの意味、人間という種族がこれから向かう場所はどこなのか、とっても示唆に富んだ書です。

イエス(イェシュア、という名前のほうが、ここではしっくりきます。)とマリアの、知られざるストーリー、ホントかウソか、という次元の話ではなく、人の心に何かを響かせ、気付かせてくれるメッセージだと思います。

映画「ダ・ヴィンチ・コード」、この本読んでから見たらまた違った印象だったかな。。。
あ、ダ・ヴィンチ!だからこの3冊だったのか!
(今ごろ気付いた。。。)


しかも数日前、私の前世となにかしら強い因縁のある土地、長崎を数年ぶりに訪れたばかり。
クリスチャンか・・・殉教か・・・オランダか!?
とにかく、何かの記憶とリンクする場所。

シンクロしてるな~。最近また特に。


いわゆるスピリチュアル系というか、その手の本は相当読み漁っていましたが・・・
今回ようやく機が熟して出会えたこの本、今の私にとって、今自分が何をすべきかとか、今の状況を俯瞰してみせてくれる、大切な道しるべとなってくれました。

人生の中でまた、こんな時間に出会えたことに感謝。



追記・・・・


鎌倉に戻ってきて、早速旦那さんに、ドイツのエジプト美術館でみた、「私に似てる像」の写真を見せてもらおうと思ったら・・・

なぜか、データから、その写真だけが消えていた・・・

前後に撮った写真は残っているのに、その銅像の写真だけが。


そして数日前、家の寝室のクローゼットの上に1枚のしおりが置かれているのに気付き、手にとってみるとエジプトの壁画の絵がプリントされたものでした。

沖縄引越しの際に、そのクローゼット周辺の荷物はほぼ片付けてしまっていたので、なんでここに1枚だけしおりが残っていたのか・・・?
しかもまたエジプトときた。

裏面をみると、「ルーブル美術館」の表記。

ルーブルに行ったとき買ったのかな?とすると、15年以上前か・・・?

そして、その絵のタイトルをみると・・・

「ハトホル神とセト王の・・・」!!!

最近になってハトホルの名前を聞くようになるまで、エジプトの美術の中で「ハトホル神」の絵は見たことないと思っていたら、、、うちにあったの~!
それも、随分前から・・・いらっしゃったんですね。

しかもこのタイミングで再会ですか。。。

ハトホルさん、これは単なる偶然なんでしょうか?
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by kamakuraecolife | 2012-07-22 19:10 | スピリチュある?

沖縄大人の休日

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本日は大人の休日。

冬至という重要な節目の日。

というわけで企画した、沖縄北部の聖地、「大石林山」へスピリチュアルピクニック(笑)

…のはずがあいにくの雨。

なのでシャーマン夫妻宅にてスピリチュアルワークショップ(笑)

そう、今日は私たち、何がなんでもスピリチュアルと絡めなくてはいけない日なので…


ワークも実に有意義な時間となり、一段落した所でちょうど、暴風の空に太陽が。


ちゃんと物事には順序があるのですね。

というわけで、いざ、「大石林山」へ。



前回沖縄に来た時にここを薦められ、

珍しいもの3連続!というサインをもらって、やっぱり、沖縄に来るべきって事?などとモヤモヤ考えていたのですが、

あれから数ヶ月…

ホントに戻って来ちゃいました。

サインに導かれちゃったかな、なんて。


大人5人、ウキウキしながら太古の陸地、自然の面影が残る山中を散策しました。

重要な場所ではきちんとワークも忘れずに…

前回来た時、この場所のエネルギーに元気をもらい、スキップしたくなるような気分で歩いたのが忘れられなかったのと、
道中での出来事が印象深くて…

展望台近くに差し掛かった時、突然頭上の木にバサバサと鳥が飛んできて、ホ−ホ−鳴くのでよくみると、鳩…
なのに緑色!?

下山して管理人の人に聞いてみたら、
「昔はね、いたらしいんですが最近はめったに見かけないですよ。珍しいものを見ましたね〜」と。

さらに「珍しいものと言えばほら、最近ここで捕まえたトカゲ、シッポが二股なんですよ〜」と。


そしてその後、近くの辺土岬に立ち寄り、展望台から眼下に広がる海を見下ろしたその時、
海亀が…

数回頭を水上に出し、ゆっくりと水面下に消えて行ったのでした…

この三連チャン、何かのサインに違いないわ…と、その時はその「何か」が漠然としてわからないままだったのですが…


再びこうして、再来してみると、やっぱりそうだったのかな、と思わずにはいられません。


しかも…

今日のワークの中でシャーマンYちゃんから、「精霊とか自然のエネルギーに繋がって受け取る時、それがわかるようにってお願いしてみたら?」
と言うので、何となく、自分なりにお願いをしてみたところ…


下山途中でいきなり静寂を破る「バサバサッ」という鳥の羽音、ほかのみんなが通り過ぎた後頭上を見渡すと…
緑の鳩!

わ〜、まただ!

ちゃんと出てきてくれた…?



そんなわけで、冬眠中の二股トカゲには会えなかったけれど、お願いは通じたっぽいなぁ、と、またウキウキ浮足で下界へ戻ったのでした。


太古から存在する岩にピッタリと寄り添ってみたら、自然はお母さんなんだな〜、としみじみ感じました。

私たちはそこに生かされ、たくさんのものを与えられているという事、ついつい忘れてしまいがちだけど、感謝の気持ちを心に刻みました。


風のエネルギーもすごかったな…


たまにはこんな大人の休日の過ごし方、贅沢だな〜、と、すべてに感謝。


まだまだ、たくさんの迷いや思いを捨てられずにいるけれど、自然の中にいると、確実に何かに助けられている事を感じさせられます。

今日の区切りの日に、自分はまた何かを手放せたかなぁ…
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by kamakuraecolife | 2011-12-22 23:56 | スピリチュある?